2019/12/28(土) 23:00〜00:00 ETV特集・選「辺野古 基地に翻弄された戦後」[字]

♪♪~
♪♪~(「星条旗」)
朝8時 アメリカの国歌が響き渡る町があります。
沖縄県 名護市 辺野古。
隣接するのは アメリカ軍海兵隊の基地…
「シュワブ」という名は 沖縄戦で戦死した
シュワブ1等兵に由来しています。
キャンプ・シュワブの沖は…
…とされ 去年12月から政府による埋め立て工事が始まりました。
≪基地を造るな!
基地を造るな!
≪基地を造るな!
沖縄では 強い反発の声が上がっています。
しかし 抗議をする人たちの中に
地元 辺野古の人は 僅かしかいません。
辺野古は 地区として…
沖縄の世論と辺野古地区の受け止めの間にある溝。
それは なぜ生まれたのか。
1950年代 住民たちは 苦悩の末にキャンプ・シュワブを受け入れました。
住民の切実な思いを アメリカ軍は
基地の建設に利用していったのです。
「交渉がうまくいって以来→
団結は過去のものとなった」。
そして 1990年代に持ち上がった…
日米の交渉担当者がその内実を語りました。
住民たちは
国策に翻弄され続けました。
新たに見つかった資料や 人々の証言から
辺野古の戦後史を見つめます。
♪♪~


沖縄県 名護市 辺野古。
人口 1,900余り。
海と山に囲まれた 静かな集落です。
地域の人々が町を巡ります。
暮らしを支えてきた井戸の水に感謝するまつりごとです。
人々は古くから
自然を大切に生きてきました。
地域のイベントには 漁師たちが
辺野古の海で取った魚が並びます。
目の前に広がる豊かな海が→
人々の暮らしに恵みをもたらしてきました。
(射撃音)
そんな町に 時折 大きな音が響きます。
キャンプ・シュワブの演習場で行われる
実弾訓練です。
(爆発音)
そして 浜辺で繰り返される 上陸訓練。
もともと この地に
アメリカ軍がやって来たのは 74年前→
1945年のことでした。
凄惨な地上戦で 県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦。
沖縄を支配下に置いたアメリカ軍は→
生き延びた住民を各地の収容所に集めました。
辺野古につくられた大浦崎収容所には
およそ3万人が収容されました。
現在 キャンプ・シュワブがある場所です。
収容所の中では 食糧が不足しマラリアが まん延。
多くの人が命を落とし その数さえ
把握できないほどだったといいます。
当時 アメリカ兵が撮った写真。


人々が食べ物を求めて 辺野古の海に殺到する様子が写されています。
辺野古で生まれ育った…
当時13歳この海で 必死に貝を探したといいます。
その辺野古に アメリカ軍が注目します。
1955年に作られた沖縄における基地建設の計画書。
海兵隊の基地の候補地として選ばれたのが
辺野古でした。
このころ アメリカ軍は
沖縄各地で 強制的に住民の土地を奪い→
急速に基地建設を進めていました。
辺野古に持ち上がった 海兵隊の基地計画。
その背景に何があったのか。
実は 当時 海兵隊は 沖縄ではなく→
静岡や岐阜など
日本本土に駐留していました。
しかし
1952年に日本が独立を回復すると→
各地で アメリカ軍基地への
反対運動が起きます。
危機感を抱いたアメリカが
移転先として選んだのが→
日本から切り離し
自らの統治下に置いていた→
沖縄だったのです。
基地計画が持ち上がると→
当時の久志村
辺野古の人々は→
反対しました。
「薪を取るための山を失えば生活ができない」。
島袋初枝さん 92歳。

生計を立てるために山に入り 薪を取っていました。
住民たちはみんな 薪を米などと交換し
暮らしを つないでいたのです。
(取材者)どうして?
更に 基地建設に反対した大きな理由がありました。
アメリカ軍と交渉した住民の一人
嘉陽宗信さんが→
生前 NHKの取材に語っていました。
計画が伝えられた年→
沖縄では6歳の女の子が アメリカ兵に