日本軍は制圧されます。
田中さんは、
奉天という町で終戦を迎え、
旧ソ連軍の捕虜となりました。
>>ダモイトウキョウ言いましたね。
ソ連兵がしきりに言うてました。
ダモイトウキョウ、東京へ帰るん
だと。
だから列車に乗れと。
>>田中さんはまず、満州の北部
へと連行され、川を渡った旧ソ連
の町で、シベリア鉄道の貨物列車
に乗せられます。
空気窓しかないため、
西へ向かっていることに気付いたのは、
バイカル湖に着いてからでした。
>>日本海だと思いましたね、広い海だから。
確かめに行ったら、
淡水だったと。
塩水ではないと。
逃げる者もおりましたね。
銃殺されてました、
見ましたね。
マンドリン銃ですから、ばばばば
んと5、6発撃つんですよ。
いっぺんに。
>>さらに西へと進み、
降ろされたのは日本からおよそ6
000キロ、
現在のカザフスタンにあるカラガ
ンダでした。
目の前に現れた極寒の地。
生きられる所ではないと感じたといいます。
これは田中さんが旧ソ連側から入
手した当時の写真です。
深い雪の中を歩き続け、
たどり着いたのは収容所でした。
ソ連の戦後復興を進めるために、
レンガの材料となる粘土を掘るなどの重労働を強いられたのです。
>>これが私の資料室のいろんな
資料が並べてあります。
>>兵庫県高砂市にある田中さん
の楽器店の2階には、たばこなど、
旧ソ連から持ち帰ったものを保管
しています。
>>白樺の木をガラスで削ったス
プーンです。
カーシャというアワの食事があっ
て、それをこれですくって食べた
と。
35キロぐらいになって、
この辺がもうすかすかになって、
バッタとかカエルとかヘビを取っ
てきて、生で食べた。
腹持ちがいい。
>>仲間は次々と衰弱死していき、
固い凍土を掘って埋葬しました。
およそ5万5000人が命を落と
したとされるシベリア抑留。
次は自分の番だ、
誰もがそう思っていました。
>>この指が1センチ短くなって
ます。
この指が2センチ短くなってます。
>>田中さん自身も、作業中の事故で、
両手の人差し指の一部を失いまし
た。
ただ、
地獄のような日々でも、支えとなったものがありました。
田中さんの生きる希望となったの
は、音楽。
偶然、
同じ収容所に、
戦争に敗れたドイツの楽団に所属
する捕虜がいました。
その人たちが収容所で奏でる澄ん
だ音色が、
田中さんを勇気づけたのです。
>>飢えと寒さと重労働に本当に苦しんでおりましたから、本当、
その苦しみを音楽が癒やしてくれ
た、
これはいいなあと。
帰ったら必ずこれをやるんだと。
>>アコーディオン奏者から演奏
のしかたを習い、旧ソ連の国歌や
民謡も覚えました。
収容所の所長は、田中さんが歌う国歌に感心し、
特別にパンをくれたことも。
音楽は、
生き抜くためのお守りでもあった
のです。
そして抑留生活が始まって4年3
か月がたった、
1949年11月。
ようやく、
旧ソ連の港町、ナホトカから、
京都の舞鶴港へ引き揚げ、
24歳のとき、
日本の地を再び、踏むことができました。
その後は酒場などでアコーディオ