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2019/01/30(水) 15:50〜17:53 ten.【若一調査隊!広島“福山城”へ「京都・伏見城」との深い関係とは】[字]


>>福山城ですね。
>>来ましたね。
およそ400年前、
数々の武功を上げたのち、この地
にやって来た大名、
水野勝成が建てた福山城。
築城当時の総面積はおよそ8万坪。
20を超えるやぐらを構え、
五層六階の大天守を備える巨大な城でした。
10万石に過ぎない藩の大名がこ
こまで大きな城を建てたのには、
ある理由が。
>>徳川政権が誕生して、
誕生したもののまだ西側に敵対す
る勢力があり、
そこを押さえ込むために拠点とこ
こ、
しようということで、
できるだけ早く、
巨大なものを、大きいものを造ろ


う。
>>その後、1873年、
廃城となりますが、残った天守閣などは国宝に指定されました。
しかし、
戦争による空襲でその天守閣も焼失してしまいます。
そんな数々の難を逃れ、
築城当時のまま残る遺構が。
それは幻の城ともいわれる京都・
伏見城から移築されたものなんで
す。
一体なぜ、
福山城に伏見城の遺構が。
城内に入ってすぐの場所にある大きな門、
戦火を免れ、
建築当時のまま残る国の重要文化財、
筋金御門です。
実は、
この門が伏見城から移築された遺
構の一つなんです。
>>なんで筋鉄御門といわれるか
というと、鉄がたくさん使われて
るんです。
>>柱の角や扉に、
いくつもの筋鉄が施され、強固さ

れた木造の門。防御に加え、
敵を威嚇する意味もあるといいま
す。
そして、門をくぐると見えてきた
のが。
立派な天守閣ですね。

>>きれいですね。
青空に映えて。
>>1966年に市政事業で再建された天守閣。
当時の写真をもとに造られた、
二層三階のつきやぐらを持つ、
五層六階の複合天守です。
福山城を一望できる最上階からの眺めは後ほど。
続いて調査隊は、天守閣の南西の
位置にあるやぐらへ。
こちらも築城当時のまま残る、伏
見城の遺構なんです。
>>ここにそのまま、伏見城の一
部があるということで、
筋鉄御門もそうですけれども、こ
の2つの建物を通して、
今はなき伏見城の実態が想像でき
るということでね。
>>三層三階建ての大きなやぐら、
その名も伏見やぐら。
筋鉄御門と同じく、国の重要文化
財に指定されています。
1592年、豊臣秀吉が築城した
伏見城、その後、
大地震で倒壊しますが建て直し、
秀吉が亡くなるまで過ごしました。
秀吉の死後、徳川家康が入り、
関ヶ原の戦いを前に焼失したものの、すぐさま再建。
政治の拠点としますが、その後、
一国一城令によって、廃城となりました。
所在や構造など、不明なことが多

かったことから、幻の城とも呼ば
れた伏見城。
そんな伏見城の遺構がなぜ福山城に残っているのか。
ここからは、
学芸員の皿海さんにお話を伺います。
>>この福山城なんですが、すで
に完成されていたお城から石垣で
あったり、やぐら、そういったも
のを持ってきたというお話がござ
います。
>>福山藩の大名、水野勝成は、
西国に対する防御のため、
一刻も早く城を築く必要がありました。
そこで考え出したのが、
ほかの城から建物を移築する、いわば城の再利用。
そのため、
伏見城からも数々の建物が移されたのです。
このアイデアによって、
勝成は巨大な城を僅か3年で築きました。
では今も残る貴重な伏見やぐらの

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