けですね。
>>そうですね。
>>これは先生、
一体どうしてなんでしょう?
>>江戸幕府のほうに、その当時、
じんやといってたらしいんですけ
ど、お殿様が、ずっと嘆願をして
いたけど、全然かなわなくて、
江戸の一番最後のときになんか許可も下りたって話なんですけど、
明治のほうにもう一回言ったら、
許可が下りたということで、それで大急ぎで建築したといわれてい
ます。
>>園部城築城の歴史は、江戸時代の初期にさかのぼります。
1619年、
外様大名である園部藩初代藩主、
こいでよしちかはこの地に築城す
ることを願い出ましたが、
江戸幕府は各藩が戦闘能力を持つ
ことを許さず、築城を許可しませ
んでした。
そのため、
当初は天守閣や櫓を持たない書院
造の陣屋となりました。
しかし、
その陣屋は二重の堀があり、土塁、
石垣で囲まれた、
そう構えの立派なものだったのです。
陣屋として建設されてからおよそ
250年後、
武士の世が終わった時代に、
明治新政府によってようやく築城が許されました。
そこには驚きの理由が。
>>明治新政府によって、
初めて認められた?
ということはやっぱり、京都との
近さといいますか、皇居との近さ
を考えて、
天皇のおられる都を守護するため
という?
>>というふうにも言われてます
ね。
>>幕末、
京都見回り役として御所の警護をしていた園部藩。
明治新政府は万が一、京都が線化
にお巻き込まれる事態となった場
合、天皇の安全を考え、
園部への避難も検討していました。
園部城は緊急時に天皇を守る城と
して、
1868年、ようやく築城を許可
されたのです。
そうして園部陣屋は日本最後の城
として、改築されました。
城っていう形が欲しかったという
?
>>そうですね。だと思います。
>>250年という長い期間を経
て城となった園部城ですが、
完成の3年後には、
明治政府の廃城令によって取り壊
される運命をたどります。
今では、
櫓門と隣接する番所、そして巽櫓だけが、園部高校の敷地内に残さ
れ、太鼓櫓が、南丹市八木町にあ
る安楽寺に移設されています。
では櫓門の内部はどのようになっ
ているのでしょうか。
地上波初公開です。
>>こちらの櫓門なんですが、これ、前野先生、
ちょっと不思議な高さですね。
中途半端な高さですね。>>そうですね。
>>というと?
>>中に入って動けるかなみたいな高さですよ。
>>あー、確かに。
立てるかなぐらいの。
>>そうそう。普通、
櫓門というのは、攻められた場合、
ここから攻撃し返したりする、
動きやすく中、空間取るんですが。>>確かに。
あっ、うわー。
>>なるほど。
本当に低いですね。
>>いやいやいや、これはこれは。>>刀を抜くこともできない。
>>本当にそうですね。
>>とてもじゃないけど戦えないですね。
これもう、屋根裏ですね。
>>屋根裏ですね。
>>この窓もね、本来、
用を成さない窓ですね。>>そうですね。
>>大阪城なんかで見えてたでし
ょ。
弓で射たりとか。
石落としたりとか、そういう構造
ですけども、これはただ光を入れ
てるだけで。
いくらでも攻撃されるという。
>>櫓門の中で明らかになったのは、
戦いを想定していない城造り。
それはお城の守備の要である巽櫓にも見られました。
>>こうして2階に上がってきた