けにこの防災の仕組み、
大きく何が変わったのかというこ
となんですけれども、こちらご覧
ください。
まず内閣の官邸の危機管理センターというのが、
今では当たり前のようにあるんで
すけれども、阪神・淡路大震災が
あってから、そのあとに完成して
いるということなんですね。
それまでにはなかった、
24時間体制で防災、
災害の情報を収集する仕組みが日
本政府にはなかったんですね。
震度5強6弱、つまり東京都内で
は震度5、
それからそれ以外の地域では震度
6弱の地震が起きれば、
5強、
それか6弱の地震が起きれば、もう自動的に非常態勢、
緊急体制が発動するという仕組み
が出来たのがこの阪神・淡路大震
災。
じゃあ、
阪神・淡路が起きたときにはどう
だったのかというと、当時の日本
政府、
村山総理内閣は、テレビの生中継を見て、
この被災地の状況を、
情報を得ていたということなんです。
国土交通省の前身のこの国土庁が
情報を集めるということになって
いたんですけれども、24時間体
制ではなかったですし、
この閣議も実際には地震が起きて
から4時間以上あと、
たってから全力を尽くせというよ
うな、総理の指示が出るというよ
うな状況で、
今もやはりもっとしっかりとやっていれば、
多くの命が助かったんじゃないか
というような、大きな教訓を残し
ているのが、
この危機管理センター。
そして、自衛隊もこの平成のたく
さんの災害の中では、
もう災害が起きれば自動的に自衛
隊が助けに来てくれると、
すぐさま来てくれるというもう定
着して自衛隊の組織の中でも、
災害イコール有事対応なんだとい
う意識が定着をしている東日本大
震災では延べ1000万人を超え
る隊員が被災地に駆けつけたとい
う状況だったんですけれども、阪
神・淡路大震災のときはどうだっ
たかというと、
被災地の派遣っていうのは非常に初動が遅れました。
まだ自衛隊を現場に派遣するとい
うことには、いろんな議論がまだ
あって、
うまく動かすことできなかった。
法律の中には自主派遣というよう
な条項もあるんですけれども、
これも基準がはっきりと定められ
てなく、
うまく使うことができなかったと
いう大きな教訓が仕組みの中にあ
ったということで、
この平成の中でいろんな試行錯誤の中の改修が行われたということ
になるんですね。
やはりもう一つは、この法律も阪
神・淡路大震災以降、いろんな法
律が出来ました。
この耐震補強に関する法律ですと
か、自宅の再建、それからボラン
ティア、
まさにボランティア元年といわれた阪神・淡路大震災でしたけれど
も、
これも阪神・淡路大震災以降にできた法律。じゃあ、
それまで日本では大きな災害が起
きたときには、
どうやって人を助けようとしたの
かというと、基本的には、
国は自力でなんとかしろというの
が、大原則だったということなん
ですね。
これがまさに阪神・淡路の起きた24年前の現実だということがい
えますね。
>>今では当たり前のことが、増
田さん、これ、大きく変わったん
ですね。
>>初期対応、初動の部分のやっ
ぱり進化というか、
整備というのがどんどん進んでい
るのかなというのは思いますけれ
ども、
やっぱり復興に関する部分で、
いわゆる縦割り行政とか、そうい
う部分でね、
ネックになってたりとか邪魔にな